虐待は悪である…自分にされることは嫌なので私はこの意見に賛同します。
しかし、虐待を悪だと言うだけならそれは臭い物に蓋をしただけということになり、建前ということにならないでしょうか?
ここでは、主観と偏見で多頭飼いについて、私が虐待だと定義していることを書いています。
はじめに
これは私が観測した推定虐待を元にした主観と偏見を根拠にした意見をを書いています。
略して、私見になります。
ここでは基本的に、動物虐待についての考えになります。
ただし、畜産業は除外します。
また、畜産以外を目的とした、植物を除く昆虫や爬虫類、魚類等を含めたペットをここでは愛玩生物という言葉でまとめて表現します。
私の虐待の定義と前回
私の虐待の定義。↓
思春期叩きの、人は誰かと関わらないと生きられないという意見を否定はしません。
だからと言って、関わるとは他人の意思に介入・邪魔する行為…すなわち虐待なのでその根本を意識しながら誰かと関わるべきだと私は考えます。
前回・↓
人間2つ以上のものは比較・評価してしまう。その延長で多産や多頭飼いをすると自然と差別します。
好き嫌いという差別を虐待者は虐待の動機(免罪符化)にして実行しやすいから、どうしても生けるおもちゃを手に入れたいのなら2つ以上手に入れることはやめましょうと言う私見です。
「生物」である。「生態」がある。
この事実を忘れられている。
やれ、虐待者が愛玩生物を子供=人間扱いしているなんて言うのはちゃちな話です。よくはないですが。
生物であるということは生態があります。
人間の場合は、個人さという程縮小しているせいで、無視または排斥の対象として生態がないかのように”なって”います。
しかし、生物はいかに人間に都合がいいように奇形種や異常個体を量産したとは言えまだまだ生物なので生態を有しています。
「縄張り」という概念
生態と言えば縄張りは切っては切り離せないでしょう。
縄張りとは、同種族間における棲み分け、領土を意味します。土地の所有とも言えるでしょうか。
縄張りが広ければ、その敷地に入った得物は自分のものになります。(仕留める必要はある)
主な想定は犬や猫と言った哺乳類を想定しますが、知っていますか?たかだか1匹の縄張りって結構広いんですよ?
一説によれば、外飼いもされているとある飼い猫の行動範囲が結構広大という研究結果もあったりします。あくまで、結果であって資料としては弱いですが。
本当にそれを元に語るのは弱いものの、それを元に考えていきます。
たかだか猫1匹の活動範囲が広いのに、部屋一つに動物を押し込むなんて。
もちろん、動物以外は野生のはずなのに3次元的に鳥籠や水槽で制限されています。
ただし、そこに巣穴を加味すれば一定の狭さは必要でしょう。
これを加味すれば、部屋や水槽に1匹は百歩譲っていいのかもしれない。
しかし、それは1匹の話です。
1匹で広範囲を縄張りとしているのにそれを2、3…匹と詰め込むと考えればこれが生態的にも無理があるとは思えませんか?
たまに個体レベルで、血縁がないのに親兄弟みたいな仲がいい場合もありますが、そうではない場合はどうするのですかっという話です。
さらに、特に動物は縄張りに自分の臭いをつけて主張を残します。
人間には1部屋は十分でもその部屋に2匹以上の臭いがせめぎ合う。
ただでさえ、人間よりも嗅覚は何倍もいいのは周知でしょう。
同種というのは味方ではありません。縄張りと見れば食糧確保という生存に関わるのですから、同種は敵とも言えます。
天敵含めて会敵すれば争うか逃げるのが本能というもの。まして逃げられないなら争うしかない。
それを飼い主は気に食わなくて、怒鳴り声と言った大声や人間と勘違いして罵詈雑言の言葉(大声)を浴びせたり暴力で、あくまで飼い主への嫌悪や恐怖を与えて飼い主(虐待者)は満足をします。
また、1匹としても自然的には縄張り内を動き回っていると言えば言い過ぎでしょうが、部屋の一周なんてたかが知れています。
得物を見逃さない緊張感ではなく、敵対の緊張感を感じながら、その臭いを常時嗅ぎながら何もやることもなく運動もできない空間に2匹以上365日24時間。
運動や遊び
愛玩生物で運動と言えば、犬が代表になるでしょう。
犬を元に語れば、たった1匹飼いの飼い主でも散歩をしない飼い主がいるというのに多頭飼いで散歩をするのか?という疑問があります。
もちろん百歩譲って、その個体が拒否を示すならともかく…
- 寒いから(飼い主が)
- 暑いから(飼い主が)
- 疲れているから(飼い主が)
- それこそ、拒否したとでっち上げたり。
1匹飼いでもこうしたことを理由としてやらない飼い主がいるのですから、そのまま多頭飼いの飼い主も同じようなことを理由としてやらないことが多いでしょう。
仮に散歩をしていたとしても、1匹に必要な1日の移動距離(運動量)を毎日歩くとは思えません。
なまじ小型犬化としている愛玩生物市場で、その分移動距離が小さくていいと思われがちですがそれは大型犬に比べればという話です。
あくまで飼い主基準で、1日の内に愛玩生物の運動に費やせる時間(≒移動距離)が必要な運動量と飼い主は思い込んでいます。
もちろん、多島海で1匹づつ散歩するなんて言う飼い主は稀でしょう。
実際、多頭飼いするような飼い主はエゴであり、自慢で見せびらかすためにも全頭引き連れて散歩もします。
しかも、効率化もできる。
もっとも、私が観測している推定虐待者は、一時期全頭散歩していましたが、嫌悪か娯楽になったのか虐待対象の個体だけ別個で散歩するようになりました。
ま、散歩しない奴よりはマシだろと思うかもしれませんが、しないよりはマシだが虐待であることには変わりがありません。
犬が長くなりましたが、他には猫等。
犬を含めて遊ぶことをしません。
遊んでいる人もいるでしょう。
しかし、虐待者は遊ばないか、遊んで偏りがあります。
遊びと言っても、それは運動量の類なので犬で言えば散歩の代わりでもいいでしょう。
もちろん、個体差は加味するべきではあります。
- 遊び嫌い
- 特定の遊びが好き
- 一人遊びが好き
- 短時間遊んでほしい
- 長時間遊んでほしい
…等々の個体さ。
この個体差を加味した上での1匹当たりの運動量=時間を多頭飼いするとその分倍数的に増えていくのです。
その時間を確保できるのかという話です。
好意(差別)の集中と偏り
愛玩生物と言うのは、文字通りに生きたカワイイおもちゃです。
生物は成長します。そして成体になります。人間で言う大人です。
愛玩生物とはこれを否定します。
カワイイ=幼体のままでいててほしい。
もちろん、種類や個体による違いは大きいですが、特に犬なんかは忠実で幼かったり、人懐っこかったり、親の延長で飼い主を独占したいとすら思っています。
上記でも触れましたが、虐待の有無にかかわらず人間は2つ以上のものには良し悪しや好き嫌いと言った差別をします。
生理的なものなので無意識に関係性に差を生じます。虐待者はこれを理由にして虐待を実行するわけです。
好意の対象がどう思うかは別にして、好意を寄せる側(虐待者)はより好きな方を可愛がりやすい。
仮に、等しくそれぞれに膨大に遊びも含めた可愛がりができるとすれば、多頭飼いはそれこそ倍数的に時間が必要になります。
もっとも、虐待者にとっては差別をもって選別した虐待対象に対してはもちろん虐待を加えますが、カワイイ対象も所詮生けるおもちゃなので、可愛がりたいときに可愛がるのみです。
しかも、本当に可愛がっているというよりは、可愛がっている自分に酔っている節があります。
あとがき
これはあくまで、私の主観と偏見での意見になります。