虐待は悪だとしても虐待について考えるのは、被害者か第三者として興味がある人しか考えないのが現実でしょう。
伝えたい対象に伝わらない、啓蒙したくてもすでに知っている人しか見聞しないというのが悲しいです。
※これは、タイトル的に虐待者への免罪符ではありません。
はじめに
これは主観と偏見に基づく私見を書いています。
また、虐待に賛同するものではありません。
他人・他生物と関わることが虐待の大前提
ここでの私の定義はあくまで個人的な定義です。
虐待と一言で言っても、ファンタジックな意味合いを込められている印象にあります。
しかし、虐待の本質は次の通りだと思っています。
- 自分以外の生物と関わること。
そんなことを聞くと、「ガキくせぇこと言いやがって」と思われるかもしれません。ただ違うつもりです。
思春期の頃のような「1人で生きたい」なんて言う意味ではありません。
少なく見てもこの100年の歴史の中で、1人で生きることができない社会を形成し維持しているので、これから全く1人完結して生きていくなんて言うのは至難の業です。
知らぬところで関わっているなんて言いう手垢のついた説教を否定もしません。
これは極端な考えではあります。
しかし、自分以外と関わる時点で、その他人・他生物の意思を阻害する可能性があります。相性が合えばいいのですが少なからずそうなります。
本質は言い過ぎでも、虐待の初歩としては十分だと考えます。
ここから、実力行使するかどうかが虐待の明暗を分け、そして、ここではこの見方を前提とします。
何人・何匹までなら、生育/飼育していいの?
最善は…産まない!飼わない!
ここでの大前提に従えば…
- 人間であれば、1人も産んではいけないし、産ませてはいけないし、付随して育ててもいけません。
- 他の生物なら、1匹たりとも飼わない。
…と言うのが最適で結果的に最善です。
これを念頭に置いて、タイトルに背くので次です。
次善策は1人「か」1匹だけ
これはくれぐれも免罪ではないです。
どうしてもどうしてもどうしても…と言うのならば大前提も踏まえつつ、強いて提案するとすれば、1人「か」1匹だけです。
ここで大事なのが1人を選ぶか、1匹(種類不問)を選ぶかです。両方はありえません。どちらかです。
両方を選ぶということは、2人以上生育することとも2匹以上飼育することとも同じ結末を導きやすいからです。
良くも悪くも、人間はまだ2以上のものに直面すると評価という形で差別してししまいます。
差別自体はいいのです。好き嫌いを止めることができますか?できる人は極めて少ない。
人間文明1000年と言ってもまだまだ動物の内として、それは本能的(生得的)なものだからです。
嫌いな時にとっていい行動はその対象から避けるだけです。
しかし、虐待者は差別を次のように論理立てて虐待の免罪符にしてしまいます。
- こいつは好き。こいつは嫌い。
- 嫌いな奴は私を不快にする。
- 不快にさせるということは加害をした。
- 加害者には何をしてもいい。(≠抵抗)
- 嫌いなやるは加害者だ。
- 嫌いな奴には嫌がらせや暴力(殺害含む)をしていい。
…という論理を立てているかはわかりません。
ただし、少なくとも虐待者は嫌いな対象に対して、なぜか関わろうとします。
その手段を嫌がらせや、罵詈雑言、暴力等と言った虐待で実行します。
正直、被害対象の単体と複数の中の集中したケース別で虐待の程度に違いがあるのかはわかりません。
どちらが過剰になりやすいのか?ただたんにケースバイケースなのか?
まだ、1人か1匹だけなら虐待をせずに済んだところを複数育てているために虐待に発展するかもしれないと言う可能性を思えば、強いて単体までなら生育/飼育していいのかなと思えます。
おわりに
これはあくまで私の主観です。
こういうことはそれなりに複合的な視点は必要でしょう。
例えば、児童虐待された人はそうでない人よりは児童虐待しやすいという一説もあります。
動物虐待についてはあまり聞きません。最も動物は虐待ではなく殺害で表沙汰にならないことも多々あるでしょうから。
くれぐれもこれは免罪符ではなく、虐待をしないことを絶対として、どうしても物欲(傲慢)や性欲が禁じ得ない人への次善的な個人の考えでしかありません。