虐待者にとって、本人は無自覚ながら虐待は娯楽です。
少なくとも私にはそう見えます。
一般的に虐待が悪い事であるとされています。これをもって虐待者から虐待を取り上げるとき代替行為を提示できるのだろうか?
目新しいことはありませんが、最近になってやっと虐待者が「差別」をしていることを認識できました。
「差別」自体は虐待ではない
一般的にも「差別」は蔑視的なニュアンスで認識されています。
たしかに、差別にはいいイメージはありませんが、だからと言って、差別自体が虐待ではありません。
虐待者が差別をして、その対象に虐待を加えているだけです。
虐待中の無自覚な差別
ジェノサイドを除き、基本虐待は特定の1人か1匹に行われていると思います。
一夫一妻主義であれば夫婦や恋人の片方が、一人っ子等ならその子が、1匹しかいなければ必然的にその一個が全面的に引き受けるしかありません。これもこれである種の差別と呼べるでしょうか。
しかし、これが多産多頭飼いならどうか?ひいては多人数の環境は?
ここで虐待者の無自覚な差別が発揮されます。いじめられた人が抱くとされる「どうして俺・私ばかり・・・」というものです。
数が多いからこそ人は選びます。それは虐待者も同じ。無自覚ながら差別し虐待を加える対象を選びます。
こちらにはまさに猫なで声で、あちらには怒鳴り散らす。人によっては暴力など。
同じことをしているのにこいつは気に食わないからきつく当たっていい。こいつは好きだから問題ない。
虐待対象を絞るメリット
自覚ある人を除けば、無自覚に虐待している人も含めて、基本的に虐待や差別は悪いと答えるでしょう。
しかし、自分はやっている。ある意味のこの矛盾が差別を駆り立てます。
多数のうちの一つ=管理が楽
多数に虐待を加えてしまうと、どれか一個体から露見してしまう危険があります。
そこを一個体に絞ることでそれだけに注力していればよくなります。管理の簡素化です。
集中して虐待できる
上記の延長ですが、なんだかんだ言って人間一つのことにしか集中できません。虐待者も人間です。
1人や1匹に集中して虐待ーしたいのです。ーできます。
そして、その差別したその一個体にみ負の感情や憂さを押し付けられて、好きな個体の悪い所は見逃してダイチュキ、ダイチュキって甘えられます。
差別対象には何をしてもいい...と思っている
虐待とは言い換えるならば、私刑とも言えます。
無自覚とは言え、差別した以上虐待者にとってそれは免罪符となり大好きな虐待を加えます。
場合によっては、どんどん過剰になっていきます。
- どう、虐待するか?
- どうすれば不快感を与えられるか?
- そもそもこいつの存在自体が気に食わないのだから自分はこいつに何をしてもいいし、それが正しい!
・・・と無自覚ながら認識している。
とりあえず「嫌い」であることを認識してほしい
認識しながら虐待している奴はそれはそれで始末に負えませんが、無自覚な奴はこれはこれで質が悪いです。
嫌いな奴に何をやってもいいかというのは別の問題です。
とりあえず、虐待者はまず自分がその被害者を「嫌い」であることを認識してほしい。嫌いであればまだその対象を引きはがす等の手が打てる可能性があるから。