虐待者にとって、虐待とは娯楽である。
私も虐待は”悪いこと”というスタンスではありますが、「悪い」と言うだけで彼ら彼女らから虐待を引きはがせるのかというと疑問符が立ちます。
今回の言いたいことは、前回にかぶります。
虐待と「怒る・叱る」についての私見です。
前回から続く
前回、私なりの虐待と「怒る・叱る」の関係や、定義は書けたつもりです。
今回は書き足りなかった部分として、前回が本人=虐待者に注目したものであるとしたら、今回は「環境=虐待者の周り・経験」について偏見と浅い知識で語れたらなと思います。
1.「叱られた」ことがない
まず、これである。
虐待者はこれまでにも「叱られた」ことがないのではないか?
勘違いさせてしまうが、これは一般的な”甘やかされた”という意味や、”怒られたり”、”叱られず”に生きてきたという意味ではないです。
ある意味で文字通りの「叱る」という行為を子供の頃も、成人してからも誰からにもされてはこずに生きてこれたのではないのだろうか。
今も昔も周りにいた/いるのが、「叱る」のではなく、「怒る」しかできない人間だけだったのかもしれない。
いわゆる連鎖。不幸の連鎖の1つ。
周りも悪かったってやつだ。
ザックリ、「叱る」と「怒る」の違い。
※私個人の定義である。
- 「叱る」…感情はない。
- 「怒る」…感情任せ。ちなみに読みは「おこる」(以下、ここでの読みはおこる)
そして、私は前回では、怒ることは虐待であると主張した。
もしかしたら、虐待者の周りの人間の中には、叱ることを理解できていた人や叱ることもできた人がいたのかもしれないがそうした人達も結局、「怒る」しかしてこなかったのではないだろうか。
人間は他の生き物に比べて、より知っていることや経験でしか行動ができない傾向にあります。
そして悪いことに、叱るなんてことは「教えるものではない」とされ、教わらない人の方が多いのではないでしょうか。
だからと言って、教わらなければ、周りをマネて”理解”とします。
虐待の有無は別にして、一般的にも叱ると「おこる」の区別はあやふやです。
今なお混同されています。
こうして、叱られずに「怒られる」しかーされてこなかった、-されていない、結果的に叱るを「怒る」と同義として解釈した虐待者が出来上がってしまった。
今なお、新たな虐待者が生産されていく。
また、虐待されたものが虐待に走りやすいという一説もあるので救われなさもある。
2.叱るということを「理解」できない
1は簡単に言えば、教育である。大人になったって教育されるんですよ?
前後で「これは叱りである」と宣告されるから、そう学んだ虐待者は忠実に今日も怒って(叱って)いるのです。
教育(環境)の影響はすごいですねって話。
ついで、1の教育ほどではないけれど、今度は虐待者個人の問題。
今回は、個人ではなく虐待者を形成してきた周りの人間に注目したいと言っといてなんですが、しかし、この要素も無視はできません。
仮に、1とは反対に周りの人間たちが優良な人たちであり、叱ることを理解し、かつ叱ることができ、極力怒らずに叱ってきたとしても、そもそも、将来の虐待者には叱ると「怒る」の違いが理解できないパターンも拭えない。
さらに、その人たちが有能で「叱り方」を教えることができたとしても、やはり、理解ができないのです。
いかりに任せて「怒って」みたら、いわゆる”叱る”姿に似ているため、ただただ怒る。
そして、怒って満足
「叱られたことがない」にしろ、本人が理解できなかったにしろ。
周りが悪いにしろ、個人が悪いにしろ。
どちらにせよ、虐待者はただただ怒って満足をする。
怒る効能は素晴らしいものがあるから…
- 加虐対象は萎縮する。さらには言うことを聞く場合もある。
- 何か行動をとっているという満足感がある。
- いかりという感情を発散できる。ついでに関係のないストレスも上乗せができる。
- 自分の怒声を聞いて、自分がいろいろ強いと思い込める。
…ひとえに言えば支配欲がいつも以上に簡単に満たせるのだ。
加えて、一般的にはなぜか「叱る=善いこと/正しいこと」という誤解がまかり通っている。
いや、むしろそれが正しいのかもしれない。
しかい、叱ると「怒る」区別ができていないから、
- 叱る→(怒る)→正しいことをしている
…という認識を作り上げ、その虐待(怒る)に正当性まで付加して、正義感までも満たせてしまう・・・
あとがき
この意見を利用する人がいるかはわかりませんが、私はまずもって絶対悪は1の教育―周りの人間にするべきだと思います。
それでもどうしても、過去に理由が見つけられない場合の最終分類として、2の個体の問題にしないと危険だと思います。
とはいえ、一般的には個体の問題だけで完結されて消費されているのが実情であり、ゆえに虐待者は日々生産され続いている。