napachiのブログ

私見です

虐待の是非4…叱れず怒るのみー「怒る」とはそれ自体が虐待である

虐待は悪い事である…とされています。

私もそれには異論はありません。

 

しかし、考えてみてほしい。

なぜ虐待が行われ、なくせなくとも一定数は発生し続けるのかを。

 

…そんなの言ってしまえば、虐待者にはメリットしかないからです。

虐待者にとって、悪い事ではないんです。

 

言っておきますが、基本的に想像で語ります。

そのため、ここにはただの想像と勝手なことを書き残しています。

 

 

 

これは基本、想像です

実際にやっていたとか、やられていたとかではなく、それでいて虐待関係を調べているという訳でもなく、ただただ私の虐待に対するイメージ等を基本としてこれを書いています。

 

あくまで個人の一意見として断定口調になりますが、それは私の意見としてであって、多数的な権威付けなどの意味はないです。

 

そもそも専門家ですらないですから。

 

 

そもそも「怒る」ことそれ自体が虐待である

最初に断っておきますが

私は私刑団ではありません。

 

私刑団とは直近の話題ならコロナ禍騒動の自粛警察やマスク警察等と存在のことです。

個人的にまとめてこう呼んでいます。

 

しっかし、「~警察」とはよく言ったもので、暴力装置ですからね警察って、名付けた人のセンスが光ります。

 

警察を暴力装置と使う際にはザックリとでも調べてくださいね?その理由を。

良い面も悪くい面も・・・

 

いかる・おこる・叱るの違いをばーここでは基本「怒る=おこる」

これだけで記事を書いてみたいなと思っていることなので、ザックリと私の定義を書いていきます。そして、この定義を元に次からを書いていきます。

ちなみに、ざっと調べてみると私の意見に近しい人や辞書(サイト)がありました。

よくよく気になる類義語の比較です。

 

  • いかる(怒る)とは、

内心で”いかって”いるがその”いかり”を表現していないこと。

  • おこる(怒る)とは、

”いかり”を表現することです。抑えきれずに”いかり”の感情を表に出している状態。実力行使ですね。

  • 叱るとは、

感情はないです。当事者間の問題で擦り合わせは難しいですが叱る側に”いかり”はあってはいけません。叱る技法として”おこる”はありますが基本的には使ってはいけません。なぜなら区別がつかないから。

 

なぜ、「怒る=虐待」なのか?

これを指摘している人がいるのかいないのかはわかりませんが、あんまり聞いたことがない話です。

 

怒る(おこる)ことの効能はザックリ分ければ、以下の3つに分けられるでしょうか。

  • 支配欲
  • 優越感・見下し(相手の萎縮)
  • 満足感(表現)

 

怒ることで相手よりも強いと思えて、さらに萎縮をしてくれる。(優越感)感情に任せて自分の思考や身振り手振りなどしてときに第三者を絡めて自己PRできる。(満足感)

対象は黙っていないといけない暗黙の了解や反論の遮断+怒っている最中の時間的拘束+事後の対象の行動や選択肢の制限(支配欲)

 

 

怒る人は基本的に表情だけではなく、怒鳴ります。

 

怒鳴らずに怒気がこもるだけの人や、怒っているのに全く怒りが面にも声にも表れない人も一部にはいるのでしょうがここでは除外します。

 

散歩中に我が子を怒鳴る母親や父親、飼い犬などを怒鳴る男性や女性等を見たり怒号を聞いたりしたことはないでしょうか?

そういうことです。児童虐待、動物虐待と言ってもいいでしょう。

 

 

怒鳴り声を虐待の行為で分類するならばこうなるでしょうか。

 

怒鳴り声を分解してみると、

  • 大声ですから、耳(鼓膜)への負荷・(肉体的な)苦痛
    →身体的虐待
  • 先に触れた支配(萎縮)なので
    心理的虐待

 

この場合の身体的虐待ですが、なまじ人間相手だと無視されていますが、家畜ならわかりやすいでしょうか。

大概ペットなどに指定されている哺乳動物は基本的に人間よりも耳がいいです。身近なもので言えばイヌやネコですね。

 

個体差はあるにしてもよほどのことがない限りには人間よりもいいのは確実であり、かすかな音も聞こえるとも言います。

そんなかすかな音も聞き取れる耳に大声を聞かせるなんて、その鼓膜に対する暴力と見てもいいのではないのでしょうか。

 

家畜ほどではないとはいえ人間の場合も重視してほしいですが、良くてもその質よりも回数に注意が向けられているような気がします。

 

反対に心理的虐待という視点では、形が同じということで人間そこそこ重視・家畜軽視な気が否めません。

 

 

ともかく、怒るはその表現方法の怒鳴るを分解してみると十分に虐待とみていいのではないかと私は考えます。

 

ちなみに、彼ら彼女らは叱れない

質が悪いことに、怒りっぽい人や明確に怒りたくて怒っている人を除けば、虐待者は躾や教育をしていると思い込んでいますし、疑いません。

 

だから、平気で怒り怒鳴ります。

正しいことをしているんだって、叱っているんだって。

 

 

違う見方をすれば、彼ら彼女らは叱られたことがないし、叱るということを知らないで生きてきています。

 

受けてきたものは全て怒られてきたのです。時には暴力も含めて。

親から、上司・同僚他から等。

 

それしか知らないのです。

人間、知らないことはできません。また、知らないことを想像することもできません。

基本的には、自分の知っていることでしか思考も行動もできません。

 

 

叱るの技法の一つには、たしかに怒声然(おこる)としたものもあるでしょうが、これが成り立つのは当事者間の関係性が重要です。

 

良好な関係性が築けており、お互いに納得しているのであれば、ここでの私みたいなのが何を言っても、それは叱られていたことになります。

 

しかし、怒る・怒られるしか知らない虐待者はその区別がつきません。
「怒っていいんだ」「怒鳴っていいんだ」とその認識をより堅実にしていくだけです。

 

 

ちなみに、その技法を含めた叱るを理解できたからと言って怒る人が叱ることができる人になるかは別の問題です。

 

 

あとがき(その他)

怒鳴る人が怒鳴るだけで満足するのでしょうか?

 

もし、この考えが正しいとしたとき、虐待者皆が暴力を振るうとは言いませんが、振るわなくともエスカレートしていきますよね。

 

私事で言えば、昭和やそれ以前の人間でもないけど、昨今の価値観で当時を照らし合わせれば親に虐待はされたよね。

 

昭和以前の人たちの懐古ではよく聞く話だけど、現代の価値観を過去に持ち出すのはあまり適切ではないけれど、子供心にはなんとなくと思ったよね、なぜここまでのことをされねばならんのかと。

 

子供(時代)あるあるだけれど、親が平時でも謝罪をしろと言っているのに、いざその時になると謝罪しているのに許されない。謝罪したら許せという風潮があるがそうじゃないよね。その目は何だと言われ(難癖)、泣くしかなくなっているのにうるさいと言われ・・・

 

はたくは体罰なのかとたまに議題に使われているけど、はたく以外にも合ったよ、私のも。

 

一部の人は成人後にそれで訴訟を起こして、聞いた話では勝訴していたように記憶している。

 

 

ここでの定義が正しいとしたとき、私が知っている例は・・・

 

怒鳴るような人はエスカレートするよねなんて偏見だろうけど、その例の人はエスカレートしたタイプになる。

 

広い意味で飼い主の気に食わない行動をし、怒鳴り散らしても収集がつかなければ、その家畜の耳元に金属をもってガシャガシャやっているし。または大きな音をドン、ドンとたてて満足している始末だし。

 

後にこれを調べると、こと哺乳動物系の愛玩生物(ペット)には大きな音をたててはいけないんですってね。

 

 

もっとも、こうしたことを含めて、知ってほしい奴に限って伝わらない。