虐待について考えたいシリーズ第2弾。
特に調べたわけでもなく、個人的な偏見や先入主で虐待について考えを述べます。
そのため、あくまでも個人の意見です。
「虐待が楽しい!!」としたとき、そいつから虐待を取り上げることができるのか??について考えてみました。
※虐待を肯定する気はないです
こんなタイトルと出だしですが、個人的に虐待は肯定していません、
はじめに
↑ 概ねの言いたいことは別の記事で書いたつもりですが、虐待に代替案があるのかについてもう一度考えてみました。
以下の内容は、約20年近く前の認識と偏見で考えています。
そして、基本的には想像で語るしかない部分もそのままに語ります。
ここでの虐待の定義
児童虐待・老人虐待・動物虐待の3つが一般的に知られた虐待だと思います。
ここではそれらに加えて、いじめ・各種ハラスメント・DVといったものも混同して考えています。
代替案は、極めて難しい
早速ですが、改めて考えてみたものの今のところこれに落ち着いてしまいました。
本当は無いと断言したいのですが、可能性ってものがあるので「極めて難しい」にしています。
虐待の効用
虐待をそれこそ「頭ごなし」に悪いとする意見は多いですが、虐待にメリットはないのでしょうか?
悪事をやめさせるとき、その悪事のメリットを考えないと代替案は提示できませんよね?
ま、代替案なんでまどろっこしいことせずに、「頭ごなし」した方が楽なのがまた救いがない。
とりあえず思いつく効用は、
- 楽しい (娯楽)
- 支配欲
- 憂さ晴らし (発散)
- 正義感 (偽善やしつけ感)
等、こんなところでしょうか。
想像の域を出ませんが、それでも4つも思いついてしまいます。
仮に、この4つだとして、どれか1つというのは稀でしょう。
割合的な増減はあっても基本的にこれら4つがまんべんなく満たされる行為はあるのでしょうか?
無自覚と有罪感
有罪感とはここでの造語です。罪悪感と概ね同じ意味合いです。
良くも悪くも、虐待している側が自覚的に虐待を行っているかというとそうではないでしょう。
想像の域を出ませんが、大半は無自覚ではないかと思います。
そして面倒なことに、自覚・無自覚の別なく共通しているのが、その行為が悪い行為であると「認識」していることです。
ただし、この「認識」というのは主観ではなく、客観的・第三者的にという意味です。
主観ではそれを悪いだなんて思ってはいません。
とはいえ、自分が第三者になると他人のそれを悪い行為だと評価はしてしまいます。
この点が罪悪感に適さない気がして、有罪感なんて言葉を作りました。
自覚していて、「虐待だ!」なんて言われると、ついにばれてしまった悔しさで逆切れするでしょうし。
無自覚なら、「虐待だ!」と言われたら、有罪感はあるので混乱して逆切れするでしょう。
仮に虐待にそっくり変わる代替行為があったとしても、自覚があればあるいはでしょうが、無自覚の場合は「急に犯罪者に仕立てられた」と一切の認識をたぶん拒むでしょう。
効用ともう1つの要素
上記であげた虐待の効用で考えてみる。
基本、虐待は身近なものに行われている。
いいかえればお手軽なのだ。簡単すぎるほどに。
この簡単さが先の効用に加えて、代替行為をより難しいものにしてしまっている。
会社や学校は若干特殊ですが、家の中はその最たるです。
部屋がなければ最悪です。しかしあったところでその薄板一枚ぶち抜けばそこに子供であれ成人がいます。
きわめて短い移動距離で簡単に暴力や罵詈雑言を浴びせられます。
きわめて短い移動距離でその家畜(ペット)を蹴り飛ばせばいいし、首をつかんで大声で耳元に怒鳴り散らせばいいのですから。
解決策と代替案は別物
虐待は悪い悪いという言説は多く、それを元に解決策の模索もそこそこにされてはいます。
私も虐待がいいものだとは思いません。
わかりませんが、そもそも代替案なんて論じられてはいないでしょうし、立場によっては極めて危険な考えです。
虐待における代替案なんて、基本的な環境を変えないことにあるからです。
解決策とはその反対の環境を変えるとも言えます。
例えば、代替案を夫婦一つ屋根の下とするなら、解決策は別居とも言えましょうか。
しかし、個人的には解決策は1つしか思いつきませんが、それを行使するためには虐待対象やそれを本当に救いたいと思っている第三者に大金が必要になります。
権利や法律以上に、結局「金」が大問題です。
だから各種解決策が執行されていないとも言えますし、結局金に行き着くから本気で解決する気はなくパフォーマンスとしての対策が乱立しているとも言えます。
それなら危険でも代替案をと思ったものの、早々に代替案は思いつかず・・・